管理人のヘルニアについて | |
前兆 | 思えば高校生の時だったと思います。私は中学の時からやっていた バスケ部に所属してたのですが、高校2年のある日の練習中、コートを全力疾走していた足がうまく動かなくなり、そのまま 転ぶ。あれが一番初めに感じた「前兆」だっと思う。 |
初めての病院 | それからは練習中はもちろん、
試合中もゲームを止めるほどの痛みが襲うようになる。授業中に落ちてしまった消しゴムを拾えなくなり、
バスケをする時は必ず付けていた両足首のコルセット(両足首靭帯が伸びているため)が付けられなくなる。
また、日常生活では靴下を履くことが困難になり、初めて病院に行く事にした。 が、初めて行った国立病院ではレントゲンのみでMRIも撮って貰えず、「腰痛」として シップと痛み止めを渡されるだけだった。 |
交通事故 | 高校は卒業し、バスケは一旦辞める。 21歳の時に、車の運転中、その直進走行中に右折車に衝突されるという交通事故に遭う。そのときも腰は痛かったけど、普段の痛みとの 区別が付かず、また運悪く(?)知り合いだったこともあり、物損事故として処理。その1週間後、右足首の感覚が殆ど失われる。 |
2度目の病院 | 2度目もまた同じ某国立病院を受診する。 前回よりも症状が明らかに進んでるにも関わらず、相変わらずレントゲンのみ。同じように痛み止めを処方される。(ヘルニアはレントゲンには映りません) |
神頼み | 病院に頼れないことがわかった私は、「腰に効く」と
言われるあらゆるものを試し始める。 そういう神様にお願いするために時間を掛けて、車の助手席のシートで横になりながら向かったり、コレを飲めば 治ったという人の話を信じて買ってみたり、牽引の機械を買ってみたり・・・。 |
私にとってのバスケ | 一度辞めたはずのバスケを社会人チームで始めていた私。 この頃には本当はもうムリかな・・と思い始めていた。でも私にとって、コレが無くなったら困ると思うものの一つが バスケだったからいつまで経っても諦められなかった。もちろん練習中に足が止まって転ぶ事もまた出てきていた。 県体に出たり、県リーグに出たり、試合も楽しくて、練習はきつかったけどそれでも楽しくて、 コレをまた辞めるとか考えてなかった。 |
八つ当たり | 当時、図面を書く仕事をしていた私は、
休憩中は職場の床にエアマットを敷いて横にならないといけないほど、また時には仕事中でも空いてる別の部屋で少しでも横にならないと
いけないような状態になる。椅子に座れば痛い、床に座ることも、何かにもたれかからないと出来ず、仰向けに寝ることも出来ない。
一度横になると起き上がるのが大変で、座ってしまうとまた横になるのが大変になっていた。
車の運転も苦痛なもので、毎日泣きながらの通勤となっていた。
立っていても直立できず、腰が曲がったまま右足を引きずって歩いていて、そんな自分がとても情けなかった。 そういうことから身近な人に八つ当たりすることも多く、そばにいた人を随分傷つけたり、心配してくれる人の 気持ちを素直に受け取れなかったりしていた。中でも「入院した方がいいんじゃない?」という言葉に一番敏感で、 言われる度に「病院に行っても痛み止めしかくれないのに、どうやって入院するの?」と怒ったり泣いたりしてばかりだった。 人の優しさを素直に受け止められないほど、心が弱ってたんですね。痛みは私の性格すら歪めました。事故から1年が経過していた。 |
整骨院 | 人にすすめられた整骨院に通い始める。 毎朝出勤前の午前7時に治療を受ける。電気治療・マッサージ・牽引・・それを毎日1年間続けたが一進一退、事故から2年が経過した。 |
3回目の病院 | 整骨院での治療に限界を感じ、今度は前に行った国立病院とは違う別の病院を受診する。 レントゲンでは骨の間隔が若干狭いことしか分からないが、坐骨神経痛の進行具合から腰椎椎間板ヘルニアと診断され、 早めの入院を進められ、翌週から入院する事になりその日はMRIを撮って帰る。 |
入院当日 | 仕事を片付け、翌週の月曜日から入院する。 入院当日、先生方がMRIを持って来られて、重度のL4/5腰椎椎間板ヘルニアと告げられる。消滅するタイプのヘルニアもあるらしいが、私のは残念ながら 消滅しないタイプだと思われると言われた。 治療方法として、まずは保存療法の「安静&食事制限(ウェイトコントロールの為)」「牽引」「仙骨(硬膜外)ブロック」「神経根ブロック」を受けていく と説明を受ける。その日から牽引がスタートする。牽引は、腰にベルトを付け、ソレに錘を提げ、腰を引っ張り、30分動かずにいる。 それから最低1時間の休憩を経て、また30分の牽引。それを一日中毎日繰り返す。 |
入院2日目 | 仙骨ブロックを受ける。 ちょうど尾てい骨の上あたりに注射を打つ。痛いけど、これで治ればなんてことない。 |
入院3日目 | 仙骨ブロックは効果がなく、
また先生の説明によると、仙骨ブロックは1回で効果がなければ2回目も効果はないとのことで仙骨ブロックでの治癒は望めなくなった。 次のステップである神経根ブロックの予約を翌週の火曜日に入れ、その週は牽引のみで過ごす。 神経根ブロックは神経に直接注射を打つため、とても痛いらしい。 |
入院9日目 | 23歳の誕生日。 神経根ブロックの前に先生にその事を言うと、「じゃあきっと効くよ」といってもらえた。 時間になり、処置用の緑の衣服に着替え、ストレッチャーに横になり、血管確保用の点滴を打たれる。しばらくし、看護師さんが迎えに来て、 「その部屋」へ向かう。名前と生年月日を確認し、ストレッチャーから台へ移る。 先生が入ってきて、まず神経に直接打つ為衝撃を和らげるべく痛み止めの注射を打つ。針が神経に当たった途端、 ポンと足が上がる。痛みに耐えながら1本目終了。針は抜かず2つめの注入。これは像映用のものだったと思う。痛み止めを打ったけど やっぱり痛い。そして3つめがやっとブロック注入になる。終わった途端の安堵感は忘れられない。それほど痛いし怖い瞬間。 その後ベッドに戻り、1時間は頭を上げることを許されない。寝たままで痛みが取れていることを願う。 1時間後まるで痛みがとれてるかのように楽に歩ける。でもそれは神経が痛み止めによりちょっと麻痺してるに過ぎないので、 本当に結果が分かるのは翌日、とのことだった。願いながら床に就いた。 |
入院10日目 | 朝起きてすぐに分かった。 「効果なかったんだ・・」と。10時の回診で、先生に「どうですか?」と聞かれる。「痛いです」と答える。 先生は残念そうな顔で、「神経根ブロックは十中八九の人に効果があるんだけど、1回目で効果が出なくても2回目で効果が 出る人もいるから」と説明。とりあえず1回目は残りの1割・2割の方に入ってしまった。ショック・・。 次のブロックが1週間後に決まる。 |
入院16日目 | 2回目の神経根ブロック。 1回目と同じように処置を終え、入院17目の翌日を迎える。何も変わっていない。先生と話し合い、3回目を打ってみることにする。 2回で効果が出ない場合、3回目での効果はあまり望めるものではないらしいけど、少しでも可能性があれば頼りたかった。 |
入院23日目 | 3回目にして最後の神経根ブロック。 今度こそ・・と願いをかけて眠った。 |
入院24日目 | 10時の回診で「効果はありませんでした」
と告げる。結局は運の悪い1、2割に入ってしまった。 次の選択肢は手術を受けるか受けないか。受けないのであればこのまま退院となる。「考えてみます」 と答え、回診が終わる。その後、別の病室にいる手術を受けた人の様子をコッソリと見に行ってみる。 でもとても大変そうで、術前よりも大変そうで、本当によくなるんだろうか、と怖くなる。 家に電話し、「手術はしない」と話すと、今まで我慢してきた涙が出てきて止まらなかった。 |
入院25日目 | 回診で先生に退院する意思を伝える。 そして翌日から日常生活に戻るためのリハビリを覚えることになる。 |
入院26日目 | 初めてのリハビリ。 今日から3日間で覚えて退院する。朝晩2度のリハビリは主に筋トレのようなものだった。あとは歩行練習。線の上をまっすぐ歩く練習をしたり、階段をゆっくり 上り下りしたりする。難しいことではないはずなのに、今はそんなことが大変。 |
入院28日目・退院 | 元々3週間の入院予定が4週に延び退院。 不安だけどこれから毎日リハビリするしかない。 |
大切なもの | チーム除籍。 1ヶ月以上練習に行けなかった上、これ以上のプレーはもうムリなのでキャプテンに電話し、挨拶をした。 好きなものを失くすのは辛いね。「マネージャーとしてでも残らない?」とキャプテンは言ってくれたけど、 やりたいことを目の前にしてやれないってこの頃の自分には考えられなかった。 |
リハビリの効果 | それが出始めたのは退院して 一年後くらいだったと思う。右足首の感覚は結局戻らないし、右足全体の感覚自体は鈍い。でも直立できるようになり、 寝るときも足が伸ばせるようになった。私にとっては凄い事だった。 |
抱えていく爆弾 | 今は痛みもかなり和らぎ、
日常生活にも支障はない。もちろん重いものを持ったりは出来ないけど、普通に歩く事も出来るし精一杯で
なければ結構走る事だって出来る。だけどこの痛みとこの違和感と、この妙な感覚とは一生付き合っていかないといけない。
いつかまたあんな状態になることがあるのかもしれない。怖いけど、今でも毎日リハビリを続けてる。 それを信じて頑張るしかないかな。 |